少し前に『不適切にもほどがある』というドラマがあって、昭和の時代に当然とされていた言動が令和の時代のコンプライアンスに合わない(または、令和の時代では当然とされている事柄を昭和に持って行っても、何かズレている)ことがコメディー・タッチで描かれていました。確かに、私たちは「その時代の空気感」という要素から、完全に自由になって物事を眺めることは難しいのだと思います。例えば、ある種類のモノが流行っていて(たとえば、、、そうですね、、、ポケモンなどのキャラクター)、街中でもTVやゲームでもあらゆる場所で目にすることが多いのであれば、雲を眺めていたらなんだか最近よく見るソレに見えてきたという人が増えても不思議ではありませんし、逆にポケモンが世にデビューする前に、雲がポケモンに見えることはあり得ないわけです。ピカチュウやモンスターたちの姿形を知っている人はまだいないのですから。私たちが下している判断は、いくら「自身で考え抜いた末」の判断だとしても、実は周囲からもたらされる情報や既存の考え方、そのときの風潮などによって、多かれ少なかれ影響を受けているといえそうです。
また、どのような立場から物事を見ているかによっても、感じ方やとらえ方は大きく変わるのでしょう。赤組が優勝した運動会について、赤組応援団長の経験したストーリーと、白組応援団長の経験したストーリーが、異なっているのは当然です。同じ運動会に参加したのだとしても、両者のドキュメンタリーを撮影すれば、まったく違った作品になることでしょう。つまり、雲を眺める地点や角度が変われば、見え方が随分違って、結果として「その雲が何に見えるか」までもが変わってくる可能性もあるということです。
そうやって考えると、その方特有の個性や認知の傾向によって「雲が何に見えるか」が決まってくることに加え、その場の状況(文化、風潮、価値観など)・どの立場から眺めるかなど、その他諸々の多くの要素が複雑に絡み合った結果として、最終的に「あぁ、この雲は〇〇に見えるな」と判断されるのだと想定できます。
そして、上記のような「この雲は〇〇に見えるな」のメカニズムは、実は日常生活でも頻繁に起こっているのではないか、、、ということも最近よく考えるのです。 ・・・『あの雲、何に見える?③』に続きます。
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