top of page

川崎昌平『文とむきあう―相手に「伝わる力」が身につく文章の教科書』イースト・プレス、2025年

 インターネットやその他のコンテンツに時間を吸い取られ、人々の読書時間が減ったといわれている21世紀の今日この頃です。たしかに、本を読む時間自体は減ったのかもしれませんが、インターネットの時代において、文字に触れる時間は20世紀に比べて格段に増えたのではないかと思います。プロが書いたコンテンツに限らず、有象無象の言葉、文、文章が私たちの日常生活を取り囲んでいます。メールその他の手段によって、文字のやり取りのみで物事を完結させることだってできます。また、ブログやSNSによって、実名を出すかどうかはともかく、私たちの多くが「発信者としての自分」の顔を持つようにもなりました。LINEなんかでは、私たちは、改まった書き言葉とも違う、でも、話し言葉をそのまま記した文とも少し違う、独自のメッセージ文体(筆者の場合、文未満の崩壊した日本語を平気で友人各位に送りつけています)を獲得したといってもよいでしょう。現代は質や長さにかかわらず、文字になった言葉、つまり、文および文章なしに物事を進めるのが難しい時代です。かつてないほどに書き言葉が力を持つ現代社会において、自分が書いた文の質を向上させれば、仕事だって捗りますし、思わぬチャンスに恵まれる可能性も高まります。

 しかし、自分が書いた文の質を向上させるといっても、よほど自分に厳しく、自覚的にならないと、その志を実行に移すのは難しいでしょう。川崎昌平著『文とむきあう―相手に「伝わる力」が身につく文章の教科書』は、自分が書いた文章を自分で校正する方法と、その際の心がまえのようなものを説いてくれます。

 ところで、「校正」とは具体的にどんな作業でしょうか。その手順は大まかに、①自分が書いたものを見直して(読み直して)、②間違い(誤字・脱字、語や文体の不統一、論理の飛躍など)を修正し、さらには、③オリジナルもよいものを目指すこと(③は推敲とも呼ばれます)。何らかのかたちで公にする文章や文書の場合、たいてい、②の段階で編集者、つまり自分以外の誰かの目に触れます。このような大仰な手順を踏まずとも、自分自身で校正ができるようになれば、自分の文章の質が向上するのは間違いないはずですが、物事はそう簡単ではありません。

本書の「はじめに」と第一章「自分で校正をしたほうがよい三つの理由」によると、文章を書く上で最も難しいのは、「自分の書いた文章における間違いを、自分で発見すること。」(p. 4)なのです。自分自身を客観視して批判することができる人はなかなかいません。自分を脱ぎ捨てようと思ってもどこまでもついてくるのが自分だったりします。ひとたび文字を埋めたら完成なのではなくて、そこからが校正の始まりなのです。文を世に放つ前にもう一度、自分自身とむきあう必要性を理解すれば、つまり、自分自身で校正する力を身につければ、「自分の表現を独力で完成させられる」(p. 27)し、さらには「自分の魅力を自分で発信できる」(p. 30)ようになるのです。私は「はじめに」と第一章を何度も読んで、著者が「校正」をとおして、私たちに何を伝えようとしているのかを理解しようと努めました。それは読者である私と著者の川崎さんがむきあっている瞬間でもあります。そこで、私はこのように理解しました。「校正」の部分を、「自分」、「自己」、「思考」と言い換えることができるのではないかと。

 第二章からは自分で校正をするための基本的な理論と技術が解説されています。なかでも私が興味を惹かれたのは、第五章での「構造とトーン」です。「構造」とは、「語彙、文体、漢語や大和言葉、一文の長短、句読点の多寡、約物記号の使い方、文語調か口語調か、書き手の主張の含ませ方、フィクションであるならばキャラクターの動き方、会話のリズム」(p. 113)などの、表現性を左右する観点のことです。もしかしたら、これは「様式」としても解釈でき、その書き手の方法、観点、個性によって紡ぎ出される独自性や特徴といえるかもしれません。

 「トーン」という語は色彩や音についても用いられます。本書では、文章における熱量、語調、調子、勢い、色を「トーン」と解釈しています。文章において具体的、論理的に言語化できない側面、その文章の雰囲気のようなものとして、私は「トーン」を理解しました。

 第六章では、読者の存在を意識した校正術が説かれているのですが、後半で、この章の「構造」と「トーン」が明らかに変わります。

「誤植かどうかも読者目線で考えよう」(p. 149)と小見出しが付けられた箇所では、著者の川崎さんがいうところの「日本の出版文化史上、最も美しい誤植」の例が紹介されています。トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』(全三冊、望月市恵訳、岩波文庫、1969)の訳者、望月による巻末の「解説」における誤植から読み取る望月市恵と北杜夫との師弟関係は、あくまでも川崎さんによる洞察と想像によるものなのですが、私はこの深い読みに感銘を受けました(川崎さんの説はぜひとも本書の中で読んでいただきたい)。これまでの解説調の「トーン」が一変し、ここでは熱い語りが展開されていて、異質な輝きを放っているのです。私は川崎さんがどんな風にお話しする方なのか、その声さえ知らないのですが、この箇所は早口で熱弁をふるう彼の姿を想像できます。活字という無機質なものが、急に身体性を帯びたようにも感じられました。この熱い「トーン」が川崎さんの「文とのむきあい方」を体現しているのだと思います。

 本書から学んだのは、校正とは、単に誤字脱字を修正する行為ではなくて、新たな自分、新たな表現性と出会うチャンスをつくってくれる営みだということです。実のところ、私は自分の文章を読み返すのが好きではありません。でも、そこから逃げてはいけないのです。本書は「校正」をよりポジティヴに捉え直すきっかけとなりました。


                                (受付 かとう)



ree




コメント


bottom of page