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あんぱん

 NHKで9月まで放送していた朝ドラ『あんぱん』を観ていました。『アンパンマン』の作者やなせたかしさんとその妻のぶさんをモデルとした物語で、『アンパンマン』が産み出された背景にこんな物語があったのかと感動しながら観ていました。


 物語の後半、のぶがたかしに自分の思いをぶつけるシーンがありました。のぶが自分のこれまでを振り返って「自分は何者にもなれんかった」と言うのです。教師も代議士の秘書も会社員も何一つやり遂げられなかった、そして母にもなれなかったと自分を振り返り「何者にもなれなかった」と苦しい思いをたかしにぶつけるのです。


 私自身も50台半ばを過ぎ、「何者にもなれなかった」というのぶの言葉は胸に刺さります。年齢性別を問わず、この思いに共感する人は多いのではないかという気がするのですが、いかがでしょうか。

 私たちは幼いころから将来は何になるのか?と問われて生きてきて、「何か」になるために頑張ってきたように思います。そしてできれば単なる「何か」ではなくて、スペシャルな「何か」いわゆる一角の人物になれるんじゃないかと夢や幻想を抱きます。

 そして日々の暮らしの中でふと自分が何者にもなれていないことに気づいて落ち込むのです。毎日の暮らしに追われて、あるいは誰かのために頑張っていて、ふと振り返ると自分が何者にもなれていないと感じるのです。


 精神分析家であるエリクソンはアイデンティティの確立が青年期の課題だとしています。心理学者であるマズローは、人の欲求は階層になっているという欲求の5階層説を唱え、階層の一番上には自己実現動機があるとしています。彼らによれば、私たちは自分はこういうものであるという確信、すなわちアイデンティティの確立を追い求め、自分が持っている潜在的な力を創造的に活かしたいという自己実現動機に促され、自己実現の追求の旅を続けます。これらは、「自分が何者なのかを探し、実現できるように追い求める旅」と言えます。

 確かなアイデンティティを求めて、自己実現を求めて動いてきたはずなのに、ふと気づけば何者にもなっていない、何も実現できていないと感じる、虚しさ、不安、焦り、、、、。のぶさんもきっとこういう思いを抱えていたのだろうと思います。


 私は私であって、単なる私でいいはずなのに、なぜ何者かにならないといけないと思っているのでしょうか。

 「何者か」という形になるものとしては中途半端でも、きっと、私は毎日、色々なことを感じたり、考えたりしながら「私」という歴史を刻んできたはずなのです。形になっていなくても、プロセスとしての「私」は確実に今も動いているのです。結果としての私ではなくて、日々の自分のこころの動き、プロセスとしての私に目を向けて、「私なりに一生懸命生きてきた、そして今も生きている」ということを胸に刻みたいと思います。ドラマの中ののぶさんにもそう伝えて、エールを送りたいと思っています。


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